”生命村長”深沢晟雄(ふかさわまさお)とは

「住民の生命を守るために私の命を賭けよう」

「村民の生命は村が責任を持つべきだ」。昭和32年、沢内村長になった深澤晟雄氏はこう住民に公約した。『生命の尊重』は、政策以前の当然の責務であるという氏の政治理念からであった。 月にロケットが飛ぶ時代に、赤ん坊や病人が、まるで石ころのように死んでいかなけらばならない。沢内という環境を氏は余りにも知りすぎていた。猛吹雪を恨みながら、あるいは医者にも診てもらえないのを嘲りながら・・・
”生命の格差は絶対に許せない”「生命のことについては、国が責任をもって守るべきだ」。---国がやってくれるまでは、村が責任を持つべきだ---氏はそういう理念から、『住民の生命を守るために私の命を賭けよう』といった。
しかし、天命はあまりにも冷酷ではないだろうか。深澤晟雄は、59才という若さで静かに息をひきとっていった。最後まで6千村民の幸せを願いながら・・・・・・。
だが、深澤晟雄は死んではいない。私たちの胸の中に生き続けているのです。それはあたかも、私たちのみちしるべでもあるかのように、暗夜の中の一条としてともし火の如く、永遠に光り輝いてくれるのです。

深沢晟雄の略歴

明治38年12月11日 沢内村太田の自宅で誕生 深澤晟訓・タミの長男
大正9年 岩手県一関中学に入学 村立新町小学校から
大正14年 第二高等学校へ入学  
昭和3年4月 東北帝国大学に進学  
昭和6年3月 東北帝国大学法文学部を卒業  
  上海銀行に就職  
昭和6年5月〜7年4月 中華民国上海銀行  
昭和7年4月〜11年10月 台湾総督府 台北警察署、台北刑務所、
職業訓練所、台北第一中学校
台北帝国大学において講師を務める
(憲法、行政法、英語、刑事訴訟法)
昭和12年11月〜14年6月 満州拓殖公社  
昭和14年6月〜18年11月 満州重工業東辺道開発会社 文書課長、大栗子溝鉱業所長代理、
北支事業所長、公社設立技術養成
学校講師
昭和18年11月〜21年4月 北支開発山東鉱業会社淄川炭鉱 総務部長、副炭鉱長、炭砕長、
最高顧問
昭和21年4月〜23年5月 郷里にて農業に従事  
昭和23年5月〜27年4月 佐世保船舶工業株式会社 佐世保造船所次長
昭和27年4月〜29年2月 日東開発工業株式会社 常務取締役
  日本蛍光燈株式会社 専務取締役
  日本温泉建設株式会社 取締役
昭和29年2月〜5月 郷里にて農業に従事 県立黒沢尻南高校の沢内分校
英語講師
昭和29年5月〜31年9月 沢内村教育長  
昭和31年10月〜32年4月 沢内村助役  
昭和32年5月〜40年1月 沢内村村長  
昭和40年1月28日 福島医大付属病院で息をひきとる 現職のまま病気で死亡。時に59歳
     

深澤晟雄の政治理念

沢内村の特徴は、第一は極めて貧乏であること。第二は極めて不健康であること。第三は極めて雪の深いことであります。
こうした環境の中で、郵便の配達も止まってしまう猛吹雪を恨みながら、石コロのように死んでいった病人を、余りにも沢山私は知っている。口に糊することも出来ない人達が、薬草と売薬を信じ、近代社会や近代医療を嘲りながら死んでいった例を知り過ぎるほど私は知っている。生命の尊重されない政治や世相の縮図のように、私の村ほど露骨にこれを現したものも少なかろう。
人命の格差は絶対に許せない。生命の商品化は断じて許せないと考えることに無理があろうか。このことは感傷的なヒューマニズムでもないし、人権尊重という民主主義の題目唱和でもない。それは人道主義とか憲法とかの生ぬるい思念の問題でもなく、もっと切実な生々しい生命自身、人間自体の 本質的な現実課題であると解するのに何の無理があろう。生命健康に関する限り、国家ないし自治体は格差なく平等に全住民に対して責任を持つべきであり、それは思想以前であり、ましてや政策以前の当然の責務であるというのが私の政治理念である。
私は自分の政治理念を不動のものと考え、内にあっては村ぐるみの努力を惜しまず、更に外からの暖かい理解と協力を信じながら、住民の生命を守るために私の命を賭けようと思う。(昭和39年5月)

深澤晟雄村長就任中の主なことがら

昭和32年10月 農協に村金庫を設置するなど他団体との「一体態勢」をしく  
昭和33年 除雪と土地改良推進のためにブルドーザーを初購入  
昭和33年9月 福祉行政の一環として他町村に先がけて70才以上の老人に対して
「養老手当金」を給付する
 
昭和34年 和賀川改修、中山街道改修工事に着手  
昭和36年 「生命尊重」の理念から、年齢的に弱い層(満1才以下の乳児と
60才以上の老人)に対する国保の10割給付を実施
 
昭和36年10月 村営保育所を設置  
昭和37年 新町小と太田小の統合に踏み切る  
  川舟診療所が落成  
  乳児死亡率ゼロを記録し、全国の注目を集める  
昭和38年 盛岡までの定期バスを確保する  
  法施行に先がけて世帯主の7割給付を実施  
昭和38年9月 「総合保健行政」の成果が高く評価されて、『保健文化賞』受章に輝く  
昭和39年11月 自治体では初めてという『岩手日報文化賞』を受賞